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農業所得倍増は下村治に学んだのか?

高度成長期の論争期にに身を置いた経済学者や、学生時代にそういった人達を師にもった人間は「所得倍増」という言葉をどのような思いで聞くだろうか。経済政策というより同時方程式モデル=計量経済学という教育を受けた私は、下村治は経済政策・計画モデルの理想像として存在している。

沢木耕太郎『危機の宰相』には下村の長男である恭民法政大学教授による解説がある。

NHKの「その時歴史が動いた 所得倍増の夢を追え(2007年)」の視聴者は日本経済に関する知識がなく、下村治はいうまでもなく「所得倍増計画」も初耳という人々が多かった。

そういう趣旨の記述があり、日本のアカデミズム(都留重人系列)とかマル経マネタリスト系列の影響力の大きさを改めて思い知った感がある。経済政策を立案するとき将来のフレームはその前提としてある。それは計量モデルによって構築する。その計量モデルの模範は経済企画庁の中期パイロットモデルであって、クラインのあの有名なモデルではない。経企庁のモデルは、下村推計の対立候補であるが、モデルの解は下村推計を目指す、私の師匠はそんな感じのことを言っていた。見通しが当たり、なおかつ、政策効果が発揮された場合の見通しになる、そういうことだろう。

水木楊『エコノミスト三国志(旧題:思い邪なし)』では

所得倍増計画はただの計画ではない。ましてや予測でもない。それは政府によるたくまざる民間経済の誘導策だった。(p155)」

39年に始まる景気討論会は時代を彩る華やかなベントであり「成長論楽観論の下村vs安定成長論悲観論の吉野俊彦」の論争は非常にエキサイティングなものだったらしい。

今このようなものはなく、朝まで生テレビくらいのものだが、私が学生のころは「悲観論の高橋乗宣vs強気の金森久雄」という構図だったが、景気論争自体は盛り上がりの賭けるものなっていった。バブルの崩壊と長期不況が経済学への不信を決定的なものにしたのではないだろうか。

結局、経済は将来の見通しがはずれれば価値はないということだし、こうしていれば良かったのだという歴史的シミュレーションも予測力あってはじめて価値を持つということだろう。結局エコノミスト達は自ら先立つの資産を食いつぶして世に災厄をもたらしているだけということになるのか。

農業所得倍増は肝心要の計量モデルによる実証が決定的に不足しているというか、欠如している。そのため検証しようがないため、魅力を感じないし、危うい空手形でしかない。場合によっては\日本農業崩壊のきっかけとなるだけなのかもしれない。政策担当者や立案者がそれを理解できないのは、下村治にでなく、都留重人に学んでいるからだろうか。

 

何よりも、今のマクロ経済学の教科書に

ハロッド=ドーマー理論がない

というのは大問題だ。